こんにちは。こんばんは。40代シンママナースのたまごです。
当然ですが、今日は誰しもが迎える「最期の時間」について考えることがあったので、少しお話をさせていただきたいと思います。
仕事柄、一般の方よりは「最期の時間」に立ち会わせていただくことが多いとは思います。
そして、「最期の時間」というのは、『みんな違う』んです。
そんな当たり前なことを伝えて何をしたいの?
と、思われる方がほとんどだと思います。
ただ、今回は「生きざま」というか、その人が「周りの人たちにどう思われていたか」=「周りの人たちをどう思ってきたか」ということにつながっているという話をしたいと思います。
わたしの仕事は訪問看護です。
医療業界では「在宅看取り」という言葉をよく耳にするようになりました。
戦前・戦直後は、「自宅で死ぬ」ことが当たり前の世の中だったそうです。おじいちゃん、おばあちゃんがいて、兄弟姉妹も多くて、介護をすることや育児をすることは家族総出で行うことが当然だったそうです。
それが、徐々に病院が増えてきて・・・
「病院で死ぬ」ことが当たり前の世の中になりました。核家族が増えて、育児でさえも大変な中で介護なんてもってのほか!と考えるようになったみたいです。
そして、2000年に介護保険制度が始まりました。
「できる限り、在宅で過ごしましょう」という世の中になります。介護は必要な人は、ヘルパーさんや訪問看護、デイサービスや福祉用具(レンタル)を利用しながら安全に自宅で過ごしてくださいという考えが広まりはじめます。
わたしが訪問看護を始めたときにもすでに「在宅看取りを勧めましょう」と、世の中が動き始めていました。「自宅で死にたい」という方が少しずつではありますが、増えてたころです。
仕事的には需要があり、すごくありがたいことです。
・・・が、自宅で死んでいった人たちの中には壮絶な最期を迎えた人もいるのです。
みんながみんな美しい、感動的で、素敵な最期というわけではありませんでした。
みなさんの中にも「自分が蒔いた種」という言葉を聞いた人がいらっしゃるかもしれません。
まさに、それです。
①「おとうさん、帰ってきて」
と、家族総出で病気になったおとうさんを迎え入れて、看護や介護をして最期の時間を過ごせる人。
②「帰ってきたいって言ってるから、帰すしかない」
③「病院に入れるお金がない」
と、仕方なく迎え入れて、最期の時間を過ごす人。
大きく違います。
想像がつくと思いますが、前述した①の方は痛みに苦しむ瞬間がないとは言えませんが、ご家族がしっかりと見てくださっているので、わたしたちへの連絡も早いです。「父が少し痛がっているみたいなんです」と。そのため少ない痛みの段階で処置を行うことができます。
「どうやっておむつを替えたらいいですか?」「身体拭きはどんなふうにしたら気持ちがいいですか?」とご家族から聞いてきてくださることがほとんどです。
後述した②③の方は、わたしたちが訪問しておむつ交換をするので、排泄から排泄までの間隔が長くなり、おむつだけでなくズボンや布団まで汚れているときもあります。
また、痛みやきつさを訴えていも気づいてもらえず悪化してからの対応になることもあります。
ご家族が清潔ケアをされない(できない場合もあります)ことも多いです。
「朝起きたら息をしてませんでした」と連絡をもらったこともあります。誰にも看取られずに亡くなったということです。
亡くなったときに、便や尿まみれだったこともあります。椅子に座ったまま硬直していた方もいらっしゃいました。
もちろん、②③の人が全員そのような状態でご逝去されたわけではありません。
わたしが思うことは、「ご家族とどういう関係性をつくって生きてこられたんだろう」ということです。
ご家族でなくてもいいのかもしれません。ご友人であってもいいと思います。
独居の方でも、最期は家族全員に集まってもらっている方も多くいらっしゃいます。
なぜそんな違いが生まれてくるのかなぁと考えたときに、元気に生きている間に、自分の周囲にいてくださる人(夫・妻、子どもたち、父・母、祖父母、友人たち)にどれだけ感謝を伝えることができて、どれだけその人たちのために動くことができているか。
そして相手に伝えることができているか。伝わっているか。なのかもしれないなぁと思います。
いま、「お父さんが家で死にたいって言ってるのに帰らせてあげられないわたし(妻・娘)は冷酷なんじゃないか」と思っている方がいたら「絶対そんなことはないです」と伝えたいです。
そう考えている人が娘の立場であれば、冷静に自分にも家庭がある、子どもがいる、父にばかり手をかけられない、帰ってきてもらっては困るということになるはずなんです。それでいいんです。そんな娘のタイミングで倒れたり病気になってしまったお父さんが選んだ人生です。
妻であれば、今までのご主人との関係性の問題です。病気になったから、倒れたからといって今までの関係性がクリアになるわけではありません。ご主人が妻を大事にしなかったことが原因です。
そして、頑張って連れて帰ってきたけれど「世話をしたくない」と思う人がいても、それは冷酷でもなんでもないんです。「自宅に帰りたい」と言った人の願いをかなえたことを誇りに思っていいと思います。
今まで家族としてやってきたけれど、信頼関係がない、愛情がないという人はたくさんいらっしゃると思います。わたしもそうです。
その関係性で「最期の時間」を有意義に過ごすことなんて無理だと思います。
今回、わたしが伝えたかったこと。それは、「最期の時間」に自分の人生のすべてが出てくるということです。
そして、「最期の時間」は周囲の人(家族など)が作るものではなく、死んでいく人が作り上げてきたものです。
適当な人生を歩んでこられた人は作り上げたものが適当なものになる。
頑張って素敵な人生を歩んでこられた人は、作り上げたものも素敵なものになる。
看取る側は、「こんなふうに最期を送ってしまってよかったのか」と考えがち、後悔しがちです。
でも、看取られる側に原因があるので決して考え込まないでほしいです。
在宅看取りは、決して素敵な最期ばかりではありません。
「こうしてあげればよかった」「あんなことすればよかった」とたくさん考え込むと思います。
でも、本人が望む「自宅に帰りたい」を聞いてあげたというだけで、とても勇気のある素敵なことだと思います。
死にゆく人に責任を押し付けるような文章になっていますが、自分の人生は自分のものです。
誰かが作ってくれるものでも、誰かが責任をとってくれるものでもありません。
自分の最期を考えながら生きる人なんていないと思いますが、自分の人生を大切に、周囲の人に感謝をしながら生きて、最期に自分を生かしてくれた人たちに「ありがとう」と言えるような瞬間を迎えたいなと思います。
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